大光明寺と知られざる日本史


第46回、京の冬の旅・非公開文化財特別公開の中で、相国寺の塔頭・大光明寺が公開されています。

実はこのお寺、私の大好きなお寺です。観光寺院ではないため、普段は門が閉まっており拝観謝絶な雰囲気を漂わせていますが、実はご本尊を信仰する方のためにお庭へは自由に入らせて頂くことができ、「京都十三仏霊場」の第四番札所にもなっています。私も時々訪れては、ご本尊を拝み、お庭を眺めて帰ります。訪れる人はほとんどなく、何十回と訪れた中でも出逢ったのは2-3回です。今回公開されると知り、人が増えるのが少し残念ではありますが、京都のよい場所を知って頂ける機会となるのでしょう。私が訪れた日は、寺宝として狩野探幽の龍の絵や、伊藤若冲の絵も公開されていました(展示替えがあるようです)。

ご本尊の普賢菩薩は、辰年と巳年生まれの方の守り本尊ということで今回の寺宝公開となったようです。以前は18年前だったとか。普賢菩薩は福をもたらし命を延ばすとして信仰を集め、六本の牙をもつ白象に乗った仏様としても知られています。あらゆる時あらゆる場所に現れる賢者として、普く(あまねく)賢い、普賢菩薩と名付けられています。文殊菩薩と一緒に釈迦如来の脇持(きょうじ・わきじ)として見られたことのある方もいることでしょう。女人成仏の信仰もあり、現在のご本尊は創建当時から、後にご紹介する広義門院(こうぎもんいん)が信仰していたものといわれています。合掌し穏やかなその御顔立ちは一見の価値があります。

知られざる日本史

大光明寺は伏見宮の菩提寺です。時は今から650年ほど前、室町幕府は成立していたものの、朝廷はまだ南北朝に分かれて混沌としていた時代のことです。この辺りの歴史は単に「観応の擾乱」と一言でしか多くの教科書には載っていませんが、実際には敵味方が入れ替わり、情勢もころころと変わる本当にややこしい時代でした。その中で起きた、衝撃の事件をご紹介しましょう。

北朝という基盤をもって、室町幕府の初代将軍となっていた足利尊氏は、東国にいた弟の直義と対立してしまいます。それだけではなく、南には南朝、西国には直義の子・直冬と、幕府のまわりは敵だらけ。三つの勢力と同時に戦うことはできないという状況の中で、尊氏が下した決断は、なんと「南朝に降伏」でした。北朝が持っていた三種の神器を南朝に渡して、北朝の天皇や皇太子は廃位。一時南北朝は統一されたのです(正平一統)。

その結果、尊氏は直義を打ち倒すことはできたのですが、一方で南北朝の和睦は破談に終わり、なんと尊氏は征夷大将軍を解任されるに至ります。勢いに乗った南朝は大軍をもって京へ攻め入り、北朝の光厳(こうごん)上皇・光明上皇・崇光(すこう)上皇の3人の上皇に加え、皇太子までも連れ去ってしまいます。やがて、一旦は都を逃れていた尊氏の息子・義詮(よしあきら)は、なんとか京を奪還。しかし、上皇や皇太子らは連れ去られたままで北朝には天皇は不在。三種の神器も南朝に渡してしまい、尊氏は将軍を解任されてしまっています。北朝方は政治的正当性を失って、あらゆる決定や行事が停滞してしまいました。

そこで白羽の矢が経ったのが、光厳・光明上皇の生母であった「広義門院」です。当時の政治慣習では「治天の君(ちてんのきみ)」として、天皇家の代表として国を治める役の人物が必要とされており、天皇の即位も三種の神器よりも治天の君による命令が重視されていたのです。ただ、北朝のそれまでの治天の君は連れ去られてしまっていました。尊氏らは広義門院を説得して治天の君となってもらい、なんとか政治活動が再開されたのでした。

かくして京に残っていた崇光上皇の弟が、広義門院の命によって即位をし、北朝の後光厳(ごこうごん)天皇となります。そして以後の北朝は、その後光厳天皇の系統が続き、足利義満の時代、後小松天皇の時に三種の神器を取り戻して、南北朝の統一を迎えて行きます。めでたしめでたし・・・と、単純には行きません。実は、一旦南朝方に連れ去られていた崇光上皇らは、やがて開放されて京に戻ってきます。しかしそこには既に後光厳天皇が・・・。崇光上皇は自らの息子を皇太子にと望みます。一方の後光厳天皇は、やはり自分の息子を次の天皇にしたい。ということで、皇位継承問題が生まれたのでした。

結論は前述の通り、後光厳天皇の系統が北朝を継いでいきますが、崇光上皇の息子(栄仁親王)は初代の「伏見宮」として後に続いていくことになりました。そして時代は流れ、現在の天皇(今上天皇)は、この初代伏見宮の子孫にあたります。広義門院は、初代伏見の宮から見て「ひいおばあさん」にあたり、血はつながっていくわけです。歴史とは辿っていくと実に面白いですね。以上、少々ややこしかったかもしれません(苦笑)しかし、足利尊氏の将軍解任や三人の上皇の拉致などは、なかなか衝撃的な知られざる日本史だと思います。

大光明寺

さて、大光明寺はそんな広義門院こと西園寺寧子(やすこ)が創建したお寺です。西園寺家ということで、生まれながらの皇族ではなかったにも関わらず、治天の君として事実上天皇や上皇と同格なったのは、長い歴史の中でも広義門院だけでした。しかも女性です。いかに時代が混とんとしていたかということです。大光明寺は、広義門院がまだ治天の君となる前に、伏見離宮の傍らに建立されました。夫であった後伏見天皇の菩提を弔うためといわれています。その後、ひ孫である伏見の宮家の初代・栄仁(よしひと)親王が大光明寺に葬られて以来、伏見宮家代々の墓所となりました。(なお、今回の特別公開で頂ける大光明寺の説明書きでは、栄仁親王は門院の「孫」と書かれていますが、系図を見る限り「ひ孫」の誤りかと思います。)

「伏見宮」の名の通り、崇光上皇や伏見宮二代目の陵墓は現在の相国寺の近くではなく、伏見のJR桃山駅のほど近くに大光明寺陵として残されています(列車からも見えます)。当時はその場所に大光明寺もありました。ちなみにこれらの立派な陵墓は、まだ北朝が「正統」とされていた時代(明治期)に築かれたもの。現在の日本史では南朝が正統とされており、宮内庁のホームページで調べても北朝の陵墓の場所は載っていません。これまた歴史の複雑なところです。

大光明寺は一旦は戦乱で衰えましたが、秀吉が伏見城築城に伴って再興し、徳川家康の時代に相国寺の塔頭として現在地に移ります。その後、天明の大火などで明治初年に一時廃絶しましたが、明治時代に伏見宮仮墓所となっていた心華院(しんげいん)らとともに、その寺域伽藍が改めて大光明寺として再興されました。

さて、現在の大光明寺の方丈正面にある龍安寺を思わせる枯山水の石庭は、「心」の字をかたどって石や苔が配されているため「心字の庭」と呼ばれています。相国寺の伽藍の屋根がちょうど借景になって、雄大さを感じるお庭です。現在は近隣の同志社大学の工事の音が聞こえますが、それ以前は本当に静かな場所でした。抜群の景観に加え、拝観料も不要で、今出川駅の近く、滅多に人も来ないお庭。これ以上の好条件は京都中を探してもなかなか見つからないでしょう。同じような石庭でもかたや龍安寺は人が多く訪れ、常に賑わっています。もちろん世界遺産で作者もわからず人の好奇心をくすぐる謎を秘めたお庭と、近年に整備された石庭とでは雲泥の差があるのでしょうが、私のような凡人にはこの静かな石庭の価値は計り知れないものがあります。

また、門を入ってすぐにある石庭は、峨眉山(がびさん)の庭と呼ばれ、普賢菩薩の修行地である峨眉山を表しています。特別公開は3月18日まで、解説付きで拝観料は600円です。拝観休止の日もありますのでご注意ください。また、相国寺では狩野光信の鳴き龍で知られる天井画が残る法堂や、開山堂も特別公開されており、併せて訪れるのもお勧めです。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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