歴史を秘めた向日神社


先日、向日市(むこうし)にある向日神社へと足を延ばしてきました。意外な話もいろいろと見つかる面白い神社です。

向日市は京都市と長岡京市と接している市で、あまりピンとこない方も多いかもしれません。実は向日市は、全国に789もの「市」があるなかで、3番目に面積が小さい市です。大都市である京都市と、都の名前として知名度のある長岡京市との間で、少し影の薄い市といえるかもしれません。しかし、史跡の密度は高く、乙訓(おとくに)地域の代表的な古墳があり、長岡京の中心地である「長岡宮」の跡も実は長岡京市ではなく向日市にあります。西国街道が通り、竹林の美しい散歩道も整備されています。日蓮宗が京都で最初に布教されたのも向日市。歩いてみると、宇治や亀岡、長岡京に負けない面白さがあると、個人的には推したい場所が向日市です。

その向日市にある神社が向日神社。延喜式内社としての古い由緒を持つ神社です。創建は長岡京ができるより前の718年と伝わります。向日山という小高い山にあり、長い参道が特徴で、桜と楓の時期には大変美しくなります。ご祭神の第一は、五穀豊穣の神である向日神(むかひのかみ)です。向日神は、大歳神(おおとしのかみ)の御子、御歳神(みとしのかみ)の別名で、向日山に降臨されたため、向日神と呼ばれるようになりました。

この「向日」という字は、文字通り「日に向かう」と解されていて、長岡丘陵の南端にある向日山は、日が東から昇ってから西に沈むまで光を浴び続けるため、そのように呼ばれるということです。九州にある「日向」と似ていますね。日向の国は気象的に見ても、日照時間が他国より多い国です。なお、向日神(向日明神)は、西山の古刹・金蔵寺の創建伝承にも登場し、何かしらの繋がりがあるのかもしれません。

この向日山には、かつて祈雨・鎮火の神である火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)祀る火雷神社があり、向日神社を上社、火雷神社を下社と呼びました。ただ、下社は荒廃したため1275年に上社に合祀され、現在の向日神社には向日神・火雷大神に加え、火雷大神の后という玉依姫命(たまよりひめのみこと)、下社を創建したという神武天皇も祀られています。

火雷大神と玉依姫命といえば思い出すのが、京都の賀茂社のご祭神です。二神の子が上賀茂神社のご祭神・賀茂別雷大神ともされ、玉依姫命は下鴨神社のご祭神でもあります。そして注目すべきは向日神社の神紋。徳川家を彷彿とさせる三つ葉葵です。向日神社によると、これは徳川家とは関係がなく、もともとの神紋は二葉葵(双葉葵)だったそうですが、いつしか三つ葉葵となったとのこと。

幕府からは紋を改める指示も出たそうですが、向日神社の方が古いものだったため、改めることはなかったそうです。賀茂社の神紋は葵祭でも知られるように二葉葵で、向日神社と賀茂社の神紋はかつては同じであったということ。洛西では松尾大社も同様に賀茂社とのつながりがあるとされ、神々の繋がりは、古来からの氏族の繋がりを表しているのかもしれませんね。

向日神社の本殿は室町時代の応永25(1418)年から4年をかけて建造され、三間社流造という室町時代の神社建築の代表例として、国の重要文化財に指定されています。こうした古建築の本殿であることから、東京にある明治神宮の本殿のモデルともなり、明治神宮の本殿は向日神社の本殿を1.5倍のスケールにして建てられているそうです。現在、日本で最も初詣の人出があるのが明治神宮ですので、そのルーツとは驚きです。

神社の立つ向日山は「勝山」とも呼ばれています。豊臣秀吉が朝鮮出兵のため前線基地の肥前名護屋城へと向かう際、向日神社で休憩をしました。秀吉が社人に社殿のある山の名前を尋ねたところ、「勝山」と返し、秀吉は出兵の門出にふさわしいと喜んだということです。このように、様々な面白い歴史を秘めた向日神社。実は境内の北には元稲荷古墳という乙訓最古の古墳があり、境内の南には向日市天文館もあります。太古のロマンと星々へのロマンを同時に感じられる場所でもあるのです。次回はその二つをご紹介したいと思います。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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