本圀寺の清正公廟

本圀寺 清正公廟
地下鉄・御陵駅から北へ徒歩約10分、山科疏水から橋を越えた場所にある本圀寺の境内に、清正公廟があります。

本圀寺本圀寺は、かつて全国に700ほどの末寺を持つ日蓮宗(法華宗)の大本山で、もともとは西本願寺の北にありましたが、昭和45(1970)年に現在の山科の地に移転してきました。寺は日蓮上人が鎌倉で住まわれた法華堂を発祥とし、室町時代初めの貞和元(1345)年に、日静(にちじょう)上人が北朝(光厳上皇または光明天皇)から土地を与えられ京都へ移ってきました。

本圀寺 清正公廟実は、南朝ゆかりの日蓮宗寺院が先んじて京都にありました。後醍醐天皇ゆかりの妙顕寺です。本圀寺は妙顕寺に対抗する寺として招かれ、日静上人は北朝方の足利尊氏の叔父にあたる人物でもあります。以後、妙顕寺と並ぶ日蓮宗の2大門流の一つとして栄えました。

本圀寺 清正公廟洛中にあった頃はかなり広い敷地を持ち、戦国時代には現在の西本願寺のおよそ北半分も境内地で、さらに堀や壁をめぐらした防御性の高い寺だったため、将軍・足利義昭の宿所としても使われました。現在は、旧地付近に残る元塔頭の真如院にゆかりの庭が伝わり(庭は昭和の再建)、例年秋に公開されています。

本圀寺 清正公廟本圀寺は、その「圀」の字が普段はあまり見かけない漢字ですが、実は江戸時代に寺を庇護した「水戸光圀」に感謝する意味で、国の字を「圀」と変えたということです。なお、江戸時代の本圀寺は朝鮮通信使の宿としても使われていました。昭和の戦後になると、寺は様々な問題を抱え、山科の地に移転しました。元の境内地は西本願寺の駐車場や東急ホテルなどになっています。現在の境内は山科疏水を橋で越えた場所にあり、都会の喧騒からは離れた静かな寺となっています。

本圀寺 清正の妻と娘の廟境内の奥には金色の鳥居が輝く「清正公廟(せいしょうこうびょう)」があります。本圀寺を庇護した戦国武将の加藤清正は、熱心な法華信者で、父の菩提を弔うため本圀寺の流派の日蓮宗寺院・本名寺を大阪に創建しています(のちに領国の肥後国(熊本県)に移転)。本圀寺は清正の菩提所として、夫人と娘の墓も境内に伝わっています。また、朝鮮出兵をした清正が講和後の友好の記念として贈られたという狛犬や朝鮮錦絵も所蔵しています。さらに寺の入口になっている赤門は、清正が寄進したところから「清正門」とも呼ばれているなど、清正との繋がりが深い寺が本圀寺です。

本圀寺 清正公廟 覆屋の彫刻清正公廟は、その鳥居に目が行きがちですが、廟を囲う「覆屋(おおいや)」の彫刻が見事で一見の価値があります。この覆屋は、江戸時代の安政3(1856)年に建てられたもののようで、注目は十二支の彫刻です。向かって左まわりに丑から亥(い)までの彫刻があり、酉(とり)が欠損しています。子(ね)は位置的には正面にありそうですが、探しても見つかりません。

本圀寺 清正公廟 覆屋の彫刻清正は虎之助とも呼ばれ、虎にまつわるエピソードも伝わっていますが、この覆屋では虎はあくまで十二支の一部のようです。子(ね)が見当たらないのには何か意味がありそうですが、わかりませんでした。いずれにしても彫刻を見て回るだけでも興味深いですので、じっくりと眺めてみて下さい。本圀寺は500円で拝観をすることもできます。本堂や釈迦堂に上がれますので、お時間のある方は拝観もしてみてもよいでしょう。

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ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年以上。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

「本圀寺の清正公廟」への2件のフィードバック

  1. 清正公廟の彫物は瀧尾神社(東山区)のものとよく似ています。清正公廟の彫物はひょっとすると同じ作者(九山新太郎)かもしれません。

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