京都府南部の南山城村は、京都府唯一の村として知られ、春には新しい道の駅ができて話題となっています。道の駅はバイパス沿いにありますが、今回ご紹介する恋志谷神社(こいしだにじんじゃ)と恋路橋は、村の集落の中心にある大河原の地域にあります。恋志谷神社は、JR大河原駅から木津川を南に渡った南大河原地区にあり、川にかかる橋が通称恋路橋と呼ばれています。
恋路橋は、増水時には水に沈む潜没橋(せんぼつきょう)で、沈下橋とも呼ばれる珍しい橋です。木津川沿いにはこうした橋が他にもあり、ガードレールがない独特な橋の景観がなんともいえない雰囲気を醸し出しています。車でも渡ることができますが、対向車や増水には十分にご注意ください。
さて、恋志谷神社は、恋路橋を渡った先の南大河原にある天満宮の内の境内社で、正式には斎(いつき)神社と呼ぶそう。祀られている恋志谷姫神は、後醍醐天皇の側室であったとされます。鎌倉時代末期、後醍醐天皇は幕府に反旗を翻して南山城村の隣にある笠置山(かさぎやま)に立てこもりますが、激しい抵抗の末に敗れ、笠置から逃れたのちに捕らえられてしまいました。一方、その頃、側室の女性は病を治すため伊勢の海辺におり、病気が治った後に後醍醐天皇がいた笠置に向かう途中で、南大河原にたどり着いたのだそう。
しかし、ここまで来た段階で後醍醐天皇はすでに笠置を去った後であることを聞き、あまりの悲しみと長旅の疲れに持病が再発してしまい、なんと自ら命を絶ったと伝わっています。姫が残した辞世の句は後醍醐天皇を愛慕し、そして自らの病を嘆きながらも、のちの世の人々の病気や苦難をわが身に受けるとあったされ、南大河原の村人は姫を悼んで供養のために祠を建てて祀ったのだそう。姫が最期まで「恋しい、恋しい」と言い続けていたことから、祠は愛着を込めて「恋志谷さん」と呼ぶようになったといいます。
神社はかつては現在地よりも西の山中にあったそうですが、明治期に現在地に移され、女性の守り神、縁結び、安産、婦人病平癒のご利益を授けるとされて、現代に至るまで信仰を集めています。潜没橋が通称で恋路橋と呼ばれているのも以上の伝承に由来します。山里でひっそりと佇む境内は、南朝にまつわる哀しい伝説を今に伝えています。
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ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)
気象予報士として10年以上。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。8年ぶりに受験した第13回京都検定で再度1級に合格し「京都検定マイスター」となる。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。毎月第2水曜日にはKBS京都ラジオ「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」に出演中。「京ごよみ手帳 2017」監修。特技はお箏の演奏。