京都の南、風光明媚な宇治を流れる宇治川の塔の島(浮島)に十三重石塔があります。
宇治は奈良と大津を結ぶ奈良街道の要衝として重視された場所です。しかし、川の流れが速い宇治川があり容易には渡れません。そこで、大化2(646)年に初めて宇治橋が架けられ、人々が往来を重ねてきました。橋は源平合戦の舞台としても有名です。一方、宇治川の洪水によって度々橋は流され、その度に架けかえられてきたという歴史もあります。
鎌倉時代の弘安9(1286)年に、西大寺の僧・叡尊によって新しく宇治橋が架け直された時、叡尊は橋が流されるのは宇治川の魚の祟りに違いないと考え、その供養として十三重石塔を建立しました。当時の宇治川では網代(あじろ)漁といって、川の中に杭をV(ブイ)字形に打ち込んで魚を追い込み、すのこ状の梁(やな)で魚を捕らえる漁法が行われていました。この漁法では、結果的に不要な魚までもが捕れてしまうため、魚の恨みが募った結果、橋が流れたと考えたのでしょう。
叡尊は、網代漁の禁止を朝廷に要請、朝廷もそれを認めてついに漁は禁止となりました。そして不要になった網代の道具を塔の下に埋めて魚を供養したと伝わります。しかし叡尊の願いとは裏腹に、その後も宇治川の氾濫は繰り返され、橋はおろかせっかく建てた十三重石塔さえも倒壊してしまうことが度々あったといいます。そして江戸時代の宝暦6(1756)年、大洪水によって倒壊し川の中に沈んで以後、150年ほど再建されることがありませんでした。
時が過ぎ、明治の40年代に入ると、岡山の宗教団体「福田海(ふくでんかい)」が叡尊の願いを受け継いで塔の再建を発願。川の中から沈んでいた石の部材を引き上げて、現在の形に再び建てられるに至りました。とはいえ、塔は高さ約15mもある日本最大の石塔で巨石ぞろいです。普通の縄では持ち上げることができず、女性信者の髪の毛を使った「毛綱」をもって石を上げ、なんとか再建できたということです。
しかし、この時は塔の全ての部材が川から発見されたわけではありません。上から9番目(5番目の説もあり)の石と頂の九輪石はついぞ見つからず、新しく補って再建されました。面白いのが、このとき発見されなかった石は、大泥棒の石川五右衛門が盗んだといわれていること。実は五右衛門が盗んだ石は、現在は藤森神社の手水舎の水鉢として使われていると伝わります。盗んだのは5番目との説も散見されますが、藤森神社のホームページによると十三重石塔の「9番目」の石だそうです。
五右衛門は豊臣秀吉の時代の人ですので時代は合いませんが、どんなに川の中を探しても見つからなかったところから、そんな伝説が生まれて来たのかもしれません。現在の十三重石塔は、朱塗りの喜撰橋との取り合わせが美しく、宇治を代表する風景の一つとして景観によくなじんでいます。先人の強い願いによって建てられ、再建されてきた十三重石塔。その堂々たる佇まいに、思いを馳せてみて下さい。
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ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)
気象予報士として10年以上。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。