赦免地踊と八瀬の里


7日の夜には八瀬赦免地踊(しゃめんちおどり)が行われました。今回は赦免地踊の紹介の前に、八瀬の地について詳しく書いてみたいと思います。

八瀬は、京都市街地から大原へと向かう途中にある集落です。この里の人々は「八瀬童子」の名で知られており、日本の歴史においても特殊な地域として知られています。八瀬は比叡山・延暦寺の麓に位置し、東塔・西塔・横川の各所へと通じる道があって都にも近い場所でした。そのため必然的に延暦寺とのつながりも深く、平安時代から青蓮院の前身である青蓮坊の領地となっていました。「童子」とは子どものことではなく、寺院勢力の下で実務労働を行う者を表す言葉で、すなわち「八瀬童子」とは「八瀬に住み、延暦寺に奉仕した者たち」との意味になります(現在は「八瀬に住む人々」の意味で八瀬童子の言葉が用いられます)。八瀬の地はこのように延暦寺へと通じる交通の要衝で、延暦寺の僧侶の往来を助ける奉仕を行っていたのも八瀬童子でした。

八瀬の特殊性は、戦前まで実質「租税が免除された土地」、すなわち「赦免地(しゃめんち)」であったことです。この発端となる出来事が、1336年1月に後醍醐天皇が足利尊氏の軍勢から逃れるために比叡山へと避難した事件です。八瀬童子は、普段から延暦寺へ向う僧侶への道案内や警護を務めていたために、当然に天皇が延暦寺へと逃れる際にも、大いに助けとなったと考えられています。天皇はこの働きに感謝をし、八瀬の地を「年貢以下公事課役」を免除するとの綸旨(りんじ:天皇の命令)を下したとされます。

余談ですが、当時の政治情勢を整理しておきます。後醍醐天皇は1333年に鎌倉幕府を倒すと「建武の親政」を始めます。しかしその公家中心かつ急進的、さらに朝令暮改を繰り返す政策は、実際に血を流して鎌倉幕府を倒した武士たちの反発を招くことになりました。そんな中、武家の名門・足利尊氏は、後醍醐天皇の勅命を待たずして鎌倉幕府の残党を打つために鎌倉へと出向き乱を鎮圧すると、そのまま都へと戻らず、ついには後醍醐天皇から朝敵として追討されることになります。尊氏は思い悩みながらも天皇方に反旗を翻し、都へと攻めのぼってくるのです。後醍醐天皇が比叡山に逃れたのはこうした折りでした。以後、混沌の南北朝時代へと時代の流れは加速して行くことになります。

話を戻します。八瀬の赦免地としての特権は、時代が移り変わっても認められていました。八瀬に伝わる文書では、室町時代後期の後土御門天皇・後柏原天皇・後陽成天皇の綸旨でも特権が認められており、江戸時代には代々の天皇による綸旨が残されています。八瀬が長年にわたって租税免除の特権が得られたのも、こうした最高権威の文書である「綸旨」があったからともされます。

そして江戸時代には、現在の「赦免地踊」が行われるきっかけとなった大事件が起こります。比叡山延暦寺は織田信長により焼き打ちを受けた後、復権の機会をうかがっていましたが、1707年(1708年とも)に行われた延暦寺の領地改めの際に、それまで延暦寺の領地に自由に出入りをして薪や柴を刈って収入を得ていた八瀬童子たちの出入りが、大幅に制限されてしまいました。この政策を進めたのが延暦寺の座主を務め、日光の輪王寺(りんのうじ)の門跡(住職)も務めた公弁法親王で、延暦寺は当時は輪王寺の統括下に入っていました。公弁法親王は後西天皇の皇子で、徳川5代将軍・綱吉や幕府重臣とも密接な関係を持つ実力者。京都では山科にある毘沙門堂の歴史の中にも名前が出てくる人物です。こうして作成された延暦寺の寺域を示す絵図には、老中の連書がしたためられ、まさに国策として強制的に八瀬童子の権利が制限されることになったのです。山間で耕地の少ない八瀬にとっては、租税の免除があるとはいえども、山で薪や柴が取れなくなることはまさに死活問題でした。

ここで八瀬童子は立ちあがります。まずは京都町奉行所に向かいますが、取り上げてもらえない。ならばと代表者は江戸へ向かい、寺社奉行に訴えるも反対にお叱りを受けてしまいます。それではと、老中・秋元喬知(あきもと たかとも)が京都に来ることを知ると、その道中の籠に付きまとって嘆願を続け、秋元はこのとき八瀬の地にも立ち寄って実情を見ることになりました。この時は秋元の江戸屋敷へ文書を持参するようにとの沙汰になりました。しかし、いざ持参をすれば門前払いを受けるなどして、実際には八瀬童子たちの訴えが認められることはありませんでした。

そして事態が進展しないまま1年以上の月日が流れます。その間の八瀬の人々の苦しみは想像に難くありません。しかし、事態が大きく好転し始めます。八瀬には公家の近衛家が管理した禁裏御料があり、八瀬童子は近衛家にも薪などを納入していました。そのため八瀬の一件は近衛家の近衛基煕(もとひろ)の目にも止まり、さらには将軍綱吉が亡くなって、時代は6代将軍の家宣と新井白石の世へと移り変わっていきました。家宣の妻は近衛基煕の娘で、政治的な働き掛けがしやすく、また前将軍・綱吉の政策は悪評が高く「生類憐みの令」の撤回など、前時代の政策の見直しが進められたのです。

結果的に1710年、歴代天皇の綸旨には延暦寺領への立ち入りの特権は書かれてはいないため山林の立ち入りは認められませんでしたが、かわりの救済措置として、八瀬にあった私領・寺領は他所へ移し、その地は幕府の直轄地として年貢課役を一切免除されることになりました。すなわち八瀬は、禁裏御料地以外は全て赦免地となり、それまで以上に赦免地としての特権が強く認められることになったのです。八瀬童子の喜びようは、それはもう大変だったことでしょう。

八瀬の人々はこうした喜びを表現するために「赦免地踊」を始めます。一般には老中・秋元喬知の裁可によって、八瀬の特権が認められたといわれますが、実際には老中一人の力ではなく、相当な政治的意図のなかで八瀬の特権は認められたと考えられます。しかし八瀬童子は、老中である秋元が八重童子の訴えに応えて八瀬の地に出向いてくれ、尽力してくれたことが裁可につながったのだと考えました。そして感謝の意を伝えるために江戸の秋元のもとへと礼に出向き、秋元が亡くなると神として祀るに至ったのです。現在の赦免地踊は、秋元喬知を祀る秋元神社の祭礼として行われています。

八瀬の赦免地としての特権は、江戸から明治へと移り変わっても実質的には受け継がれました。地租はかかるのですが、それと同額の御賜金が支給されたのです。この時もやはり、後醍醐天皇以来の歴史的経緯が重要視され、その特権は昭和の戦前まで続きました。さらには天皇の輿丁(よちょう:輿をかつぐ役目)としての仕事も与えられ、現金収入を得ることもできるようになりました。天皇や皇族の大喪・大礼において輿を担ぐことが注目されがちですが、それもあくまで明治以降に与えられた業務の一環ということです。さて、前置きが長くなりましたが、また近日中に赦免地踊の詳細を記載します。なお、今回の記載内容は、宇野日出生氏の著書「八瀬童子」を大いに参考とさせていただきました。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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