天正10(1582)年6月2日、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれました。ただ、一般的に信長の亡骸は見つかっていないとされ、信長の墓(供養塔)とされるものは、京都でも複数個所にあります。そのひとつが阿弥陀寺で、毎年6月2日に信長忌が行われ、信長と嫡男・信忠、兄の信広の木像と、ゆかりの品々が公開されています。
阿弥陀寺を開いたのは清玉(せいぎょく)上人です。清玉上人は織田家の本拠地・尾張国で生まれました。母親は産気づいたまま道で倒れてしまったところを、信長の兄・信広に助けられました。しかし清玉上人を産んですぐに亡くなってしまったため、清玉は織田家によって育てられ、僧として修行をする資金も織田家が工面してくれました。当然信長をはじめ織田家の人々とは顔見知り。そのため本能寺に兵が集まっていると知ると、当然のように清玉上人が駆けつけたのです。上人は信長の亡骸を持って本能寺を出て供養したと寺では伝わっています。そのため数ある信長の墓の中でも、阿弥陀寺の信長の墓には本人が眠っている可能性があるといわれています。
信長を討った明智光秀を滅ぼしたのは豊臣秀吉でした。秀吉は信長の後継者であることを世に示すため、信長の葬儀を行おうと考えました。そこでまず清玉上人に相談をし、阿弥陀寺にて葬儀を行いたいと伝えます。ところが清玉上人は、すでに葬式は済ませているとして秀吉の再三の申し出をはねつけたのです。秀吉以上に織田家に強い恩義のある清玉上人からすれば、秀吉の魂胆は見え見えで、受け入れがたかったのでしょう。
やがて清玉上人が亡くなると、秀吉は大寺院だった阿弥陀寺を現在地に移転させ、お寺の規模を縮小してしまいます。これは秀吉の申し出を断った恨みがあったからともされ、実際、寺町通に大がかりに洛中の寺が移される数年前に今の場所に移転してきています。権力者に見放され、困窮した阿弥陀寺を援助したのは、森蘭丸らで知られる森家の人々。現在も阿弥陀寺の信長の墓のわきに、森蘭丸らの墓が並んでいます。
阿弥陀寺の信長忌で公開される信長像は、面長のなかなか厳しいお顔をしています。普段は非公開の阿弥陀寺ですが、大変貴重な機会。以前は写真撮影がOKでしたが、現在は不可となっていますのでご注意ください。午前中には法要が行われていて、織田家ゆかりの方が参列されています。私が訪れたのは午後でしたが団体の一行もおられ、信長の人気の高さを物語っていました。信長忌での本堂拝観は千円。機会があればご参拝ください。
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ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)
第14回京都検定1級(合格率2.2%)に最高得点で合格。気象予報士として10年以上。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。8年ぶりに受験した第13回京都検定で再度1級に合格し「京都検定マイスター」となる。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。毎月第2水曜日にはKBS京都ラジオ「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」に出演中。「京ごよみ手帳 2018」監修。特技はお箏の演奏。