路地の奥にある友禅ゆかりの越後神社


京都といえば細い路地。今でもまさに迷路のように図子(辻子:ずし)や細い路地(露地:ろじ・ろーじ)が残っていて、一見行き止まりのようでも思いもかけない場所へと通じていることがあります。今回ご紹介する越後神社も、そんな細い路地を進んだ場所にあります。

越後神社があるのは、堀川三条の近く。地図を見ると近いのですが、三条通や堀川通からは行くことができず、たどり着くには六角通からしっかりと地図を見て道をたどっていかないと初めてでは難しいでしょう。住所は越後町で、大正時代の地名辞典である京都坊目誌によると、室町時代に杉若越後守という武将が住んでいたことから、町名となったと伝えられています。その後、この一帯は戦国武将の浅井長政の手になるなどの変遷を経て、幕末には丹波篠山藩・青山家の京屋敷となりました。神社への参道となる細い道が、地元で青山路地と呼ばれているのはこのためだそうです。その青山家の屋敷は1300坪を超える広大さで、庭園には300坪ほどの大きな池もあり、その中の島に鎮守で祀られていた神社が引き継がれ、今日の越後神社となっています。

さて、この神社を紹介したのは、京都検定とも関係をしているためです。「広瀬治助」という名前を、京友禅の項目で覚えた方もおられると思います。実際に過去問で出題されたこともあります。広瀬治助(備治)は、明治10年代に型紙と色糊を組み合わせて、試行錯誤の末に「写し友禅染め」を発明しました。これは明治になって研究が進んだ科学染料を混ぜこんだ「色糊」を用いることによって、防染と着色という本来は別々の作業を同時に成し遂げるという画期的なものでした。これによって手間が大きく減るとともに、デザイン面でもより繊細なものが可能となって、京友禅の普及に多大に貢献することになります。

広瀬治助は、明治21年ころに青山家の屋敷跡に工場を建設し、豊富な水量を活かして型友禅の大量生産を行いました。これらの由緒から越後神社は染色関係の方から「友禅神社」と呼ばれているそうです。境内には広瀬治助の名を伝える碑も神社の裏に立っています。残念ながら昭和10年ころより池の水位が下がり始め、やがて全く水も湧かなくなって、周辺は埋め立てられ池もほとんど姿を消しました。神社の周りが、現在のようなマンションや住宅地になったのもそのような経緯からでしょう。現在は神社の裏手に少しだけ池の跡と思しきものが残されています。

京都検定ではテキストもあり、今の世はネットの記事や書籍も充実していますので、あらゆる知識を得ることはたやすいですが、実際に現地へ行ってみるとまた違った感慨がわいてきます。越後神社も地元では親しまれている神社のようで、折々の祭事の案内も町内には掲示されています。座学だけではなく、現地に足を運んでみると強く印象に残ると同時に、座学ではわからない新しい発見もあることでしょう。例えばこの赤レンガの壁。現在は民家の一部になっていますが、地元の方によると、なんと!広瀬治助が建てた工場の遺物を利用したものだそう。案内板も何もありませんが、今回改めて訪れた時に見かけて、ふっとそのことを思い出し、過去の新聞記事を引っ張り出して確証を得ました。百聞は一見に如かず。現地ガイドの強みは、こういったところからも培われて行くのでしょう。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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