美しい塔が立つ近衛天皇陵


大河ドラマの「平清盛」では、近衛天皇が在位中です。京都の南、竹田駅のほど近くに、美しい天皇陵といわれる近衛天皇の陵墓があります。

近衛天皇陵は、正確には安楽寿院南陵(あんらくじゅいん みなみのみささぎ)と言います。なぜ美しいかと言えば、その陵墓の上に端正な多宝塔が立っているためです。この多宝塔は近鉄電車からも見え、どこかの由緒あるお寺の境内にあるように見えますが、実際には天皇陵に立っています。

近衛天皇は、鳥羽上皇(三上博史さん)と得子(なりこ:松雪泰子さん)との間に生まれた皇子で、崇徳天皇(井浦新さん)から位を譲られ、僅か2歳で即位しました。その即位において、崇徳天皇は自らの「養子として」位を譲る予定であったのが、即位式に至って「弟に」譲るとされ、式の途中で崇徳帝が延期を申し出たにもかかわらず、鳥羽院はそのまま強引に進めてしまったといわれています。崇徳帝の恨みようは並々ならぬものがあったことでしょう。

さて、幼くして即位をした近衛天皇。実権は鳥羽上皇が握ったまま、やがて元服して后を迎えますが、藤原摂関家の頼長(山本耕二さん)からは、多子(たし)を、忠通からは呈子(ていし・しめこ)をそれぞれ迎えることになります。これは二人の権力争いの結果で、もし近衛天皇に男子が生まれれば、その祖父として権力が握れると、それぞれが考えていました。しかし5年後、近衛天皇は病によって失明の危機を迎え、やがて子のないまま十代の若さで亡くなりました。天皇がこれほど早く亡くなってしまったのは、頼長らが愛宕神社で呪いをかけたためとされました。噂を流したのは兄の忠通の企みと考えられ、権謀術数渦巻くとはまさにこのようなことを言うのでしょう。近衛天皇の崩御によって、いよいよ後白河天皇が表舞台に登場することになります。

近衛天皇は亡くなると、船岡山の西で火葬され、現在その場所を推定した土地には「近衛天皇火葬塚」も整備されています。余談ですが、近代に整備された天皇陵は、後から盛土をしたり墓を築いたりと信ぴょう性には乏しいものが多いですが、その場所については何かしらの記録を元にはしていて、闇雲に比定されてはいません。つまり「この辺り」という大まかな場所を示していると捉えると、古を偲ぶこともできることでしょう。近衛天皇火葬塚は、住宅地の中に隠れるように存在しています。千本今出川のすぐ近くではあるものの、火葬塚への参道入口が目立たず、分かりにくいです。

さて、塔の立つ近衛天皇の陵墓のある付近には、かつては広大な鳥羽離宮があって、その中に墓が作られていました。すぐ近くには近衛天皇の父である鳥羽天皇の陵墓もあります。この鳥羽天皇の陵墓にもかつては塔がありましたが、焼失して残されていません。実は、現在の近衛天皇陵は、もともとは鳥羽上皇の后であった得子(美福門院:なりこ)の墓として作られたものでした。しかし得子は深く信仰心を寄せた高野山への埋葬を遺言したため、せっかくの陵墓が空き状態となってしまいます。そのため、鳥羽上皇と得子との間に生まれた子どもであった近衛天皇の遺骨を改葬して陵墓としたのです。現在の塔は、当時からのものではありませんが、400年ほど前に豊臣秀頼の命で片桐且元を奉行にして再建されたもの。近衛天皇陵も、鳥羽天皇陵も実際にこの場所に埋葬されている可能性が高い天皇陵です。

なお、鳥羽・近衛天皇陵のほど近く、阪神高速京都線に沿った交通量の多い道沿いには、白河天皇陵があります。今年の大河ドラマ「平清盛」では伊東四朗さんが演じ、清盛の父とする説もある人物。日本史でも「院政」を始めた上皇として有名です。天皇陵としては一般的な外見の陵墓ですが、実は周辺の発掘調査によって、現在よりも大きな一辺56mの方墳であることがわかっており、こちらも実際に白河天皇が埋葬されている可能性が高い陵墓です。かつては三重塔も立っていたそう。今や交通量の多い道路に面して、人々の往来を見守っています。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

より大きな地図で 近衛天皇陵(安楽寿院南陵) を表示

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